800年前の〝ローカルヒーロー〟 源頼朝に学ぶ地域活性化の極意

鎌倉幕府を開いた源頼朝。関東地方で兵力を集めて平家を打倒し、朝廷の力に頼らない、新しい時代を切り開いた人物です。


関東のイメージが強いですが、実は頼朝は京都出身で、13歳まで京都で暮らしていました。


当時の京都は政治・経済・文化の中心で、今で言う東京のような存在。対して関東は朝廷の影響力が小さく、有力な武士たちがそれぞれの領地を束ねている状態でした。


頼朝は、鎌倉を中心とした関東地方を治めることに力を尽くし、幕府を開いてからはわずか2回しか京都に行かなかったそうです。


当時の「首都」に生まれながら、そこを志向せず「地域」にとどまり続けた頼朝。いま必要とされている〝ローカルヒーロー〟の原点として、彼の生涯をたどってみましょう。





800年前の〝首都 vs 地域〟
平安時代後期、京都で生まれた頼朝は、13歳の時に父親が戦乱で亡くなります。歴史の教科書にも出てくる「平治の乱」です。この時、頼朝自身も遠く離れた伊豆に流されました。


戦いに勝利した平清盛を中心とし、都では「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われる時代が幕を開けます。あらゆるものが京都に集中していたのです。


後白河法皇の皇子、以仁王はそれに危機感を感じ、諸国の源氏に平家追討を命じます。頼朝もこの時挙兵を決意し、父親の時代からゆかりのあった関東の武士たちに協力を呼びかけました。


関東で力をつけた頼朝と、京都で実権を握る平家との戦いが始まったのです。




「富士川の戦い」での決意

1180年の「富士川の戦い」は、頼朝にとって大きな転換点となります。頼朝率いる関東軍は、清盛の息子・平維盛を総大将とする追討軍と衝突しました。


追討軍は長距離の遠征で疲弊しており、頼朝軍との兵力の差を目の当たりにし、目立った交戦をしないまま撤退します。


頼朝はそのまま平家を討つべく京都に進もうとしましたが、周りの武士たちがそれをとどめ、こう言いました。


「あなたのすべきことは京都に行くことですか。関東を治めることではないのですか。」


頼朝はそれを聞き、京都へ攻め込むことをやめました。この時彼は、自分の役割は関東という地域に根ざし、武士たちをまとめることだと気づいたのです。


頼朝はそれ以降、自分を必要としてくれている関東にとどまり、ローカルに生きることを選びました。



地域に根ざすローカルヒーロー

頼朝の次男、3代将軍実朝は、父親とは逆に「首都」京都との結びつきを強めました。


地方出身の北条政子を正室とした頼朝とは違い、実朝は京都の公卿の娘を正室としています。また京都から『新古今和歌集』を取り寄せたり、後鳥羽上皇に取り入り武士として初めて右大臣になるなど、朝廷との関係を深めていきました。


実朝のこうした態度は、朝廷を利用して幕府の権威を高めるためとも言われていますが、関東出身の御家人たちの反感を買い、ついには鶴岡八幡宮で殺されてしまうのでした。


〝東京一極集中〟が問題視され、地域の価値が見直されている現在。頼朝のような強い意志を持ったローカルヒーローが、各地に必要とされています。

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